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豊かな自然や文化、歴史遺産の町・中辺路地区

中辺路地区は紀伊半島南部に位置し、果無山脈から流れ出る富田川、日置川の流域に拡がる緑豊かな町です。
平安の昔から、人々は熊野の神に現世の救いを求め熊野三山を目指しました。
その参詣者によって踏み開かれたのが熊野街道中辺路であり、中辺路町の名前の由来となっています。
古代末期から近世にかけて『蟻の熊野詣』といわれるほど、多くの参拝者の列がこの熊野古道中辺路を往来していったと伝えられています。
町内には王子跡や街道の面影が至る所に残されており、懐かしい古道のロマンの香があふれ、 熊野信仰に関係する多くの旧所、名所、伝説などが残されています。

熊野古道

平成16年7月7日に、熊野古道を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」が、世界遺産リストに登録されました。
熊野古道とは、伊勢や大阪・京都と紀伊半島南部にある熊野の地とを結ぶ道のことをいいます。
古くは「くまのみち」、「熊野街道」とも呼ばれ、 これらのうち保存状況の良い部分が「熊野参詣道」として国の史跡に指定されています。

豊かな自然に恵まれたこの地域を南北に縦貫する熊野古道は、「伊勢へ七度、熊野へ三度」と伝わる通り、伊勢参りを済ませた旅人の多くが熊野詣や西国巡礼へと向かった街道でありました。
人々は玉城町の田丸で巡礼の装束に身を改め、苦行の道へと旅立って行ったのです。 熊野古道は、厚い信仰の道として遥か遠国からも参詣者や巡礼を集め、一時は「蟻の熊野詣」と称される賑わいを見せるほどでした。

盛衰を繰り返してきた熊野への路ですが、ここ数年再び脚光を浴び始め、多くの人々が熊野を訪れるようになりました。 その人達は、いにしえの人々のように、熊野への信仰のため訪れる者もあれば、観光を目的とし古道を歩く者もあり、現皇太子の熊野古道訪問や、癒しを求める風潮・古道ブームも少なからず影響しているようです。

そのなかでも中辺路はメインルートとして多くの旅人に利用され、今でも歴史の息吹を色濃く残すハイキングルートとして人気の高いところです。
国道311号に沿って山の尾根づたいに熊野古道が通り、王子社は五体王子の一つ、滝尻王子ほか、大門王子、大坂本王子、近露王子など、12社も点在し、今もなお往時の面影を残しています。

滝尻王子

(説明板より)
この王子社は、岩田川(富田川)と石船川が合流する地点にあり、ここから本宮まで厳しい山道となります。

天仁二年(1109年)に熊野参詣をした藤原宗忠は、十月二十三日に水を浴びて禊をした後に、この王子社に参詣していますが、日記に「初めて御山に入る」と書いているように、滝尻からが熊野の霊域とされていたのです。
承安四年(1174年)に藤原経房がこの王子に参拝したときには、社殿で巫女が里神楽を舞い、建保五年(1217年)の後鳥羽上皇と修明門院の参詣の時には、両院が馴子(なれこ)舞いに興じているように、いろいろな芸能が奉納されました。

特に著名なのは、後鳥羽上皇が歌人を随行させたときには、この王子社の宿所で歌会を開いたことです。
建仁元年(1201年)に藤原定家が随行した際に、めいめいが和歌を書いた「熊野懐紙」は一枚も残っていませんが、前年の正治二年(1200年)のものは十一名の分が伝来しており、そのすべてが熊野古道館に複製展示してあります。

鎌倉末期以降、熊野の御子神五所を祀る五躰王子の一つとされ、室町時代にもそのように呼ばれていますが、三栖(田辺市)から潮見峠で栗栖川へ通じる道が多く利用されるようになると衰退しました。
明治時代には村内の神社を合祀して十郷(とごう)神社と呼ばれましたが、現在は滝尻王子宮十郷神社と称しています。近くに熊野古道館があります。

胎内くぐり・乳岩

滝尻王子から熊野古道の階段をのぼり、坂道を行くと、巨石が重なり合ってトンネルの様になっています。
昔、里の妊婦がここをくぐると安産出来ると言われていました。そこから「胎内くぐり」と言われる様になったそうです。

昔、藤原秀衡が子宝に恵まれる様に熊野に願掛けをしにきました。
願いが叶って夫人が懐妊し、そのお礼参りに来たのですが、この乳岩の辺りに来て急に産気づき、男の子を出産しました。
赤子を連れて参詣を続ける訳にはいかないので、その子をこの空洞に置いて参詣を続けました。
参詣を終えてここに戻ってくると、熊野のご加護があったのか、残された赤子は狼の乳を飲んで育っていました。

そのことからこの岩を乳岩と名づけたそうです。

箸折り峠と牛馬童子像

大坂本王子から谷川に沿って国道311に出ます。そこから登り坂で箸折り峠に着きます。
この場所は、里を取り囲む山が見られたので、旅人には良い休憩場所となっていました。
後に花山法皇の法衣とお経を埋め、建てられた宝篋院塔があります。その側に、牛馬童子像があります。

牛と馬にまたがった姿は、「苦しい時は牛の様に粘り強く、楽な道は馬の様に軽快に」という山歩きの心得を教えてくれている様にも感じられます。

近露王子

牛馬童子の箸折り峠から下って、日置川を渡った所にあるのが近露王子です。
かつては産土神としても祀られていました。
近露は田辺と本宮の中ほどに位置し辺りが盆地となっていたので食料にも恵まれ、熊野詣での宿場として賑わっていました。

現在は地域の住民全員で行っている「近露まるかじり体験」などのイベントが行われています。

継桜王子

(説明板より)
藤原宗忠は、天仁二年(1109年)十月に熊野に参詣した際、「道の左辺に継桜の樹あり、木は檜で、誠に希有なこと」と、日記に記しています。
檜を台木とした桜が生長していたものとみられます。

建仁元年(1201年)十月に後鳥羽上皇に随行した藤原定家の日記、 あるいは承元四年(1210年)四月、修明門院に随行した藤原頼資の日記には「続桜」王子とありますので、鎌倉時代にはこのめずらしい木の傍らに王子が出現したようです。
ただし、藤原宗忠の参詣記では、仲野川(現、野中川)を何度か渡るようにし記していますので、この王子社はその後現在地に移されたことも考えられます。

江戸時代には若一王子権現とも呼ばれ、また、社前の桜樹は「接桜(つぎざくら)」、更には「秀衡桜」ともいわれて名木となっていました。
王子社から約百メートル東にある現在の秀衡桜は何代目かにあたり、明治中期に植えられたものです。

明治時代には王子神社となり、末期に近露の金毘羅神社(現、近野神社)に合祀されましたが、社殿は残り、後に神体も戻されました。
境内にある九本ほどの杉の大木は、枝がすべて南向きに伸びているため、「一方杉」と呼ばれています。神社合祀の際に、南方熊楠らの保存運動によって残され、 現在はこの神社に奉納される「野中の獅子舞」とともに、県の文化財に指定されています。

桜はもともとは境内にありましたが、明治二十二年風水害で倒れた為に、現在の位置に植え替えられました。

継桜王子(奉納獅子舞)
*継桜王子(奉納獅子舞)

安珍清姫伝説と一願寺

安珍清姫伝説

奥州白河の僧侶「安珍」は、熊野詣に向かう途中に現在の中辺路町の民家に宿を取ります。
その家の娘「清姫」は、安珍に一目惚れをしてしまい、二人は恋に落ちます。
「熊野詣でを果たしたあかつきには、添い遂げよう。」と安珍は熊野詣でへと起ちますが、約束を果たさず、 そのまま帰路に就こうとします。

裏切られたことを知った「清姫」は、怒りのあまり大蛇に身を変え道成寺まで「安珍」を追いつめますが、 釣り鐘の中に隠れた「安珍」に手を出せず、釣り鐘の中の「安珍」と我が身もろとも焼き殺してしまいます。
二人は、観音菩薩の慈悲により救われ昇天しますが、ここにも「小栗判官と照手姫伝説」同様に 「貴賤、浄、不浄を問わず、全てを救う。」と言う熊野の神仏の寛大さをうかがうことができます。

※別の一説では、927年(延長6年)頃の出来事で、本宮大社に使える宮司「清重」の娘として生まれた清姫は、若くして悲恋の恋に悩み、現在の西牟婁郡中辺路町真砂にある庄司ケ淵に身を沈めて、その生涯を果てたと言われています。

この「安珍清姫の物語」の悲恋は「法華験記」(11世紀)に記され、「道成寺もの」として能楽、人形浄瑠璃、歌舞伎でもよく知られています。
中辺路には伝説「道成寺物語」の清姫にまつわるたくさんの遺跡があります。
清姫が水垢離をとったという「清姫渕」、その時衣を掛けた「衣掛松」、安珍の帰りを待った「清姫のぞき橋」、水鏡にした「鏡岩」、蛇となってその幹をねじた「捻じ木の杉」があります。

一願寺(正式名称 福厳寺)

臨済宗・妙心寺派 福巖寺は、和歌山県の熊野古道の近くに建立され、『安珍・清姫物語』の清姫の菩提寺であり、東海近畿地蔵霊場第二十七番の札所でもあり、一願地蔵尊をおまつりし、通称一願寺と呼ばれております。
一願地蔵尊は、「一つの願いをかなえてくれる」と 各地から多くの参拝者が来られます。

この地蔵尊は、文政六年(1823年)、83歳で亡くなった第六世住職、鉄凌道桟和尚をまつったものと言われ、地元では、「一願地蔵」や、「からし地蔵」と呼んでいます。

自らの臨終を悟った和尚が死の三日前、村人一同を集めて別れのあいさつをし「わしの死後、地蔵をつくって人通りの多いところへまつってほしい。まつってくれれば、一人に一願は必ず叶えて進ぜよう」と約束。 「ながながと如来のまねも今日限り」との辞世の句を残し、本堂で坐死したといいます。

和尚が好んだと言われる、からしとお酒を供えれば、願い事が一つ必ず叶うといわれ、「からし地蔵」とも呼ばれているようです。
地元だけでなく、遠方からも多くの信仰者を集めています。

一願寺
一願寺(正式名称 福厳寺)

福定の大銀杏

本宮町から田辺市に向かう国道311号線の中辺路町福定の宝泉寺境内にある樹齢推定400年の大銀杏は、【町指定天然記念物】とされています。 幹の周囲5.3メートル、高さは22メートル。
根元から高さ4メートルで幹が数本に分かれ、 地元ではこの見事な枝張りの姿から千本銀杏とも呼ばれています。

国道311号線から見ても紅葉の頃には、はっきり見つけられるその姿は、山の木々の間から綺麗なドーム型の樹冠を作り、 黄金色に光ってそびえています。

見ごろは毎年10月下旬~11月中旬頃で、この福定の大銀杏の紅葉を楽しみながら熊野古道を歩く人々が増えてきています。 紅葉シーズン中は地元の有志が設置した電球でライトアップされ、 周囲の木立の中でひときわ輝いてそびえ立つ姿を見ることができます。

福定の大銀杏
福定の大銀杏

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